「FREEWORLD PARTY」に参加してきました。
http://freeworld.tv/
http://www.ustream.tv/user/FREEWORLDchannel
参加者の皆さんの前のめりなエネルギーがものすごく、だからこそこちらも倒れる心配もないので前のめりにいき、とても疲れました。心地良い疲れです。
クリエイター同士ということと、多くの人と話そうとするため、無意味な世間話などなくダイレクトな会話ができました。
こういう刺激的な時間をもっと増やしていけるよう、自分の感覚と活動を研ぎ澄ませていこうと強く思いました。
紀里谷和明さんが印象深い言葉を締めで話していました。
『「◯◯をやりたいと思っています」
「◯◯を目指しています」
無意味です。
何のアピールにもなりません。
クリエイターなら、かたちで見せてくれ。
命懸けで作った1枚、30秒を見せてくれ。
それで凄いものは凄いとわかる。
名刺、見返しません。
CD、DVD、観ないので受け取りません。
一瞬で衝撃を与えるものを見せてくれ。』
と。
正直なことを言うときは、ともすると辛辣になりがちです。
でも多くの言葉で装飾しても結局のところ、人と人は魂の部分で語らなければならないのです。
だったらはじめからそうすればいい、ということでしょう。
とてもシンプルでダイレクトで愛を感じました。
ものすごく共感します。
sylian rueの名前は、前回FREEWORLD TV配信で紹介いただいた際に覚えてくださっていたようです。
30秒の一撃は伝えられていると確信しました。
CDは受け取っていただきました。
もちろん、CDは色々な方にも差し上げました。
その皆さんが聴いてくださることを信じています。
顔を合わせて話して、面白そうだった人の作品をさっそく自宅で視聴しています。
何かが始まるといいなと思っています。
2012年6月14日木曜日
2012年6月2日土曜日
FUKAIPRODUCE羽衣 LIVE Vol.6
FUKAIPRODUCE羽衣(以下、羽衣)のライブを観てきた。
羽衣は一風変わったミュージカル=「妙ージカル」というスタイルで活動している劇団だ。
詳しくはこちら。
舞台作品と平行して、これまでの舞台で使われた楽曲を生演奏を率いて歌うという活動をしている、とても面白い劇団だ。
今回、羽衣を初めて観たのだけれど、上手く見せようなんて気がさらさらないような歌も身体も荒っぽい場面があり、切なく美しく歌い上げる場面も笑いを取りに来る場面もあり、とにかく振り幅が大きくて、いつの間にか演者が乗るジェットコースターに同乗させられて急上昇し急降下、旋回し再び急上昇するような、あっという間の二時間だった。
内容は、いわゆる「青少年少女の妄想」を大いに絡めた歌詞・台詞を載せた音楽と、汗だくで動き回る身体を軸に展開する。
「青少年少女の妄想」なので、下の話、性的なことばが多く出てくるのだけれど、不思議と品性を損なっていない。なぜだろうか。
おそらくそれは、なにか企みや処理とかいう乱暴な大人の性感覚ではなく、まだ性に対して罪悪感や羞恥心を感じていてそれに翻弄されてしまうとても純粋な少年少女の、美しいことばで綴られた甘酸っぱい恋の話だからだろう。
10代で多くの人が体感するむず痒さ。それを耳障りの良い音楽と、若気の勢いに似た大振りな身体、裸の心で表現する。
30代のいい大人たちが、10代さながらに、形相を変え変え歌い、汗まみれで必死に踊る。体力だって、体型だって、疲労の回復だって思春期と比べれば間違いなく衰えているはずの30代たちが。
それがとても滑稽で、とても共感でき、とても切なかった。
それでも彼らは歌い踊ることで無垢な青い羽衣を纏い、纏うことで、生きるために余計な知識や感情その他で装ってきた彼ら大人たちは裸になっているように見えた。
心が透けて見えるような、その羽衣。
なんだか、美しかった。
演者と同世代、あるいはそれ以降の世代がこの舞台/ライブを観たら、きっと似たような気分になるんじゃなかろうか。
公演後、帰り道でものすごく切ない気持ちに襲われた。
胸がぎゅっと締め付けられる、電車の窓に流れる景色を見ているようでまったく心ここに在らずの、気を抜いたら泣いてしまいそうになる、あの感覚。
懐かしい記憶を掘り起こされたからだろうか。
二度と訪れないあの時代を悔やんでいるからだろうか。
いま、恋をしたい、と思った。
友人に子どもができたり、人と結婚や子どもの話をすることが最近多くあり、そういうことについてはじめて想いを巡らせているのだけれど、
そんないまこそ、純粋な恋をしたい、と思った。
座って観ていただけなのに、ものすごくエネルギーを使ったようで普段にない疲労を感じた。
それは舞台上で繰り広げられる、ものすごい声量とぶんぶん振り回す身体を観てのことではなく、きっと感情が色々な方向に揺さぶられたからだ、と思う。
それはいい舞台、いいライブの証拠だ。
また、舞台やライブで感じたことを日常生活に持ち帰って、自分の一部にすることができる作品は、すばらしい作品だ。
観客がこれだけ疲れるのだから、演者は精根尽き果てているはずで、
そんな中、公演後に相手をしてくれた演者さんたちにとても感謝しています。
そういうわけできょうは精魂を使ったので、
帰り道に鰻を買って夕食を少しだけ贅沢にした。
今夜はよく眠れそうだ。
それにしても公演後、出演者にすごく良かったことをできるだけ多く伝えたいのだけれど、こちらも気分が高揚しているからなのか、ことばを重ねれば重ねるほどどんどん薄っぺらく伝わってしまっているように感じてしまうのはどうにかならないだろうか。
作品で伝えてくれたことに対して、ことばで返すことがまったく見合っていないように感じて、そういう場面に出くわすと毎回悶々とする。
2012年5月19日土曜日
吉日
きょう、友人夫婦が無事出産を終え、女の子を授かりました。
日々のニュースは悲しいものが多いので、本当に嬉しい報せです。
自分もこのように喜ばれて産まれてきたのかなと思うと、
喜びを受け渡しながら生命というものは受け継がれていくのでしょう。
きょうは、良い日です。
日々のニュースは悲しいものが多いので、本当に嬉しい報せです。
自分もこのように喜ばれて産まれてきたのかなと思うと、
喜びを受け渡しながら生命というものは受け継がれていくのでしょう。
きょうは、良い日です。
2012年3月4日日曜日
救済
「更生に何のメリットが?」無反省 ライブハウス襲撃犯の「法相殺害計画」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120303-00000550-san-soci
かつての少年が再犯してしまったのは、
自分を許すことも、
自分の奥底にある反社会的な感情や衝動を受け入れることもできないまま、
周囲の人間に表面的な地均しをされて社会復帰したからかもしれない。
塀の向こう側の更正教育がわからないから実際のところは想像するしかないが、
根源的なところに触れなかったのであろうことだけは確かだと思う。
そして社会が、社会に馴染めない人をフォローする仕組みも場所も用意しないことも問題だ。
本当の救済について考えている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120303-00000550-san-soci
かつての少年が再犯してしまったのは、
自分を許すことも、
自分の奥底にある反社会的な感情や衝動を受け入れることもできないまま、
周囲の人間に表面的な地均しをされて社会復帰したからかもしれない。
塀の向こう側の更正教育がわからないから実際のところは想像するしかないが、
根源的なところに触れなかったのであろうことだけは確かだと思う。
そして社会が、社会に馴染めない人をフォローする仕組みも場所も用意しないことも問題だ。
本当の救済について考えている。
2012年1月10日火曜日
パラダイスという名の洗脳夢について/メモリの童話集
先日観に行ったASYL公演で知り合った、演出家/舞踏家の方が主催する「メモリの童話集 http://ameblo.jp/miffy-cafe/」初公演の「パラダイスという名の洗脳夢について」を荻窪G-screw-dance-Laboで観た。
荻窪に降り立つのは2年半ぶりくらいになるだろうか。
とても思い出深い、自分にとって特別な街のひとつだ。
駅前のビルの中、こぢんまりとはしているが劇場があることなど知らなかった。
よく訪れていた当時は舞踏や舞台と絡むことも興味もなかったから当然か。
埋もれていた色々な記憶や思考といま現在の感覚や思考が混ざり合い、それが公演を観るための準備になった。
2011年というのはどうやっても忘れることはできないし目をそむけてはならない年だったが、
まさに2011年ならびに「いま、現在」を思考する人の脳内を覗き見するような70分だったと思う。
作品は演出家が自分の脳神経と絡み合い踊りながら、意識や無意識にアクセスしようとしているような内容に感じた。
演出家自身が今回の作品は観やすくポップな意識で作ったと言っていたように、
60's70'sのような色彩も交えながら現代について自分自身のあたまで考えるよう訴えてくる直接的な演出はとても印象的で、その直接さは「いま」必要な姿勢だと思う。
また年明け早々というタイミングで観たことも、この公演と2011年を余計にリンクさせたのかもしれない。
自分もあらためて2011年ならびに「いま、現在」について考えてみようと思った。
無意識にアクセスしようとしていると言ったが、拒否反応を起こすほどの無意識内を抉る内容ではなかった。
しかしもし演出家が、自分の内側を晒すことの他者に及ぼす作用についての自覚があったのだとしたら、それは自分のつくる音楽と同じ姿勢だ。
そしてそれを他人に見せつけようとする人間はそれぞれそうせざるを得ない事情があるのだろうが、総じて変態だと思う。
この上なく自己弁護になるが、変態と真摯とは自分の中でほとんど同義だと思っている。
無意識内には美しいイメージと恐ろしい思考、おぞましい欲望やイメージなどの狂気が同居しながら潜在しているはずで、自分はそれをサイケデリックと呼んでいるのだが、
そのサイケを露わにすることは現代社会生活を送る上ではタブーとされているし、
そもそも人はそういう自分の中のものを自分で見て壊れてしまわないように無自覚に抑圧して日々を送っている。
そういうものと正面から向き合って自覚していくことはとても勇気のいることで、自分自身に対して本当に真摯だと思うし、
そういう姿勢を社会との関係性に置き換えていくことは世界に対して真摯であると思うからだ。
そしてそういうものを晒しても咎められることなくむしろ受け入れてもらえるのが創作という場所だ。
自分が身を投じたそういう場所について考えながら帰途に就いた。
荻窪に降り立つのは2年半ぶりくらいになるだろうか。
とても思い出深い、自分にとって特別な街のひとつだ。
駅前のビルの中、こぢんまりとはしているが劇場があることなど知らなかった。
よく訪れていた当時は舞踏や舞台と絡むことも興味もなかったから当然か。
埋もれていた色々な記憶や思考といま現在の感覚や思考が混ざり合い、それが公演を観るための準備になった。
2011年というのはどうやっても忘れることはできないし目をそむけてはならない年だったが、
まさに2011年ならびに「いま、現在」を思考する人の脳内を覗き見するような70分だったと思う。
作品は演出家が自分の脳神経と絡み合い踊りながら、意識や無意識にアクセスしようとしているような内容に感じた。
演出家自身が今回の作品は観やすくポップな意識で作ったと言っていたように、
60's70'sのような色彩も交えながら現代について自分自身のあたまで考えるよう訴えてくる直接的な演出はとても印象的で、その直接さは「いま」必要な姿勢だと思う。
また年明け早々というタイミングで観たことも、この公演と2011年を余計にリンクさせたのかもしれない。
自分もあらためて2011年ならびに「いま、現在」について考えてみようと思った。
無意識にアクセスしようとしていると言ったが、拒否反応を起こすほどの無意識内を抉る内容ではなかった。
しかしもし演出家が、自分の内側を晒すことの他者に及ぼす作用についての自覚があったのだとしたら、それは自分のつくる音楽と同じ姿勢だ。
そしてそれを他人に見せつけようとする人間はそれぞれそうせざるを得ない事情があるのだろうが、総じて変態だと思う。
この上なく自己弁護になるが、変態と真摯とは自分の中でほとんど同義だと思っている。
無意識内には美しいイメージと恐ろしい思考、おぞましい欲望やイメージなどの狂気が同居しながら潜在しているはずで、自分はそれをサイケデリックと呼んでいるのだが、
そのサイケを露わにすることは現代社会生活を送る上ではタブーとされているし、
そもそも人はそういう自分の中のものを自分で見て壊れてしまわないように無自覚に抑圧して日々を送っている。
そういうものと正面から向き合って自覚していくことはとても勇気のいることで、自分自身に対して本当に真摯だと思うし、
そういう姿勢を社会との関係性に置き換えていくことは世界に対して真摯であると思うからだ。
そしてそういうものを晒しても咎められることなくむしろ受け入れてもらえるのが創作という場所だ。
自分が身を投じたそういう場所について考えながら帰途に就いた。
2011年12月3日土曜日
2012年に向けてのミーティング
題名通り、来年の2月のイベントのことやその先のこと、個人的な活動のことなどを制作者で集まってミーティングした。
身体のこと、心のこと、過去のこと、意識の向かうところ、それぞれがそれぞれの話をしたいい時間を持てた。このプロジェクトの輪郭が少しだけ見えた気がした。原体験的な話も聞けて作品に対する理解度がより深まった。そしてなによりそういった話から、体験の道程は違えどそこから似たようなことを考え、ある部分では自分と同じような場所を通過した人たちなんだなと感じることができた。
自分で紆余曲折して感じ、気付いた、自分が人と関係する上で、自分が社会や地球環境の中で生きる上で、自分が物を消費しながら生きる上で、自身の内側と折り合う上で大切だと思うことが先人の哲学に記されていたり、作品を作る際にストーリーを描いていって形にしたものが実は似たような話が神話や伝説に残っていたりすることが自分にはよくある。そういう時、とても奇妙で不思議な感覚に陥る。同時代でさえ生まれや育つ環境も違うわけだし、さらに時代が違えば政治的経済的状況も思想も風土も文化も食も身の守り方も快楽も規律も何もかもが異なるのに、同じところを通過し、辿り着く。そこには普遍的な何かが存在していてどんなに遠回りをしたとしても、いや遠回りをするからこそそこに絶妙なタイミングで辿り着くことになってでもいたような、何かに導かれているような気がしてならない。そこではいつだってとてもシンプルで普遍的なことが自分を迎えてくれていると思う。
ものを作る時、自分はそういう自分が感じる普遍性を理屈抜きで感じられるようなものをつくりたいと思ってつくっているのだと思う。
たぶん。
そんなことを思い、期待膨らんだ日だった。
もっと話す時間が欲しいと思ったと同時に、今後がさらに楽しみになってきた。
身体のこと、心のこと、過去のこと、意識の向かうところ、それぞれがそれぞれの話をしたいい時間を持てた。このプロジェクトの輪郭が少しだけ見えた気がした。原体験的な話も聞けて作品に対する理解度がより深まった。そしてなによりそういった話から、体験の道程は違えどそこから似たようなことを考え、ある部分では自分と同じような場所を通過した人たちなんだなと感じることができた。
自分で紆余曲折して感じ、気付いた、自分が人と関係する上で、自分が社会や地球環境の中で生きる上で、自分が物を消費しながら生きる上で、自身の内側と折り合う上で大切だと思うことが先人の哲学に記されていたり、作品を作る際にストーリーを描いていって形にしたものが実は似たような話が神話や伝説に残っていたりすることが自分にはよくある。そういう時、とても奇妙で不思議な感覚に陥る。同時代でさえ生まれや育つ環境も違うわけだし、さらに時代が違えば政治的経済的状況も思想も風土も文化も食も身の守り方も快楽も規律も何もかもが異なるのに、同じところを通過し、辿り着く。そこには普遍的な何かが存在していてどんなに遠回りをしたとしても、いや遠回りをするからこそそこに絶妙なタイミングで辿り着くことになってでもいたような、何かに導かれているような気がしてならない。そこではいつだってとてもシンプルで普遍的なことが自分を迎えてくれていると思う。
ものを作る時、自分はそういう自分が感じる普遍性を理屈抜きで感じられるようなものをつくりたいと思ってつくっているのだと思う。
たぶん。
そんなことを思い、期待膨らんだ日だった。
もっと話す時間が欲しいと思ったと同時に、今後がさらに楽しみになってきた。
2011年11月7日月曜日
横浜トリエンナーレ
横浜トリエンナーレを2日間かけて観てきた。
3.11を経ての開催で、アーティストも思うところがあったのだろう。作品を選別しなおしたらしい。
ある美術サイトのブログでは、このタイミングで現実から目を背けた展示という内容で批評されていたが、主催者の意図がどうだったのかはわからないけれど、とても瞑想的で人間が本当に大切にしなければならないものを伝えようとしている展示会だったと思う。
----個人的に感じるものがあった作品の備忘録----
James Lee BYARS (ジェイムス・リー・バイヤース) / Five Points Make A Man
瞑想的。暗闇の中の光。美しい。
Christian MARCLAY (クリスチャン・マークレー) / The Clock
世界中の人の誰もが脱落することなく同じ時間を生きている。
人は孤独だが関係性を持って存在している。
他人への思いやりや優しさ、繋がりなどについて。
すごい作品。ずっと観ていられる。
Mircea CANTOR (ミルチャ・カントル) / Tracking Happiness
先人たちが残した足跡を消してそこをまた踏みしめるということ。
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」ビスマルク
3.11を経ての開催で、アーティストも思うところがあったのだろう。作品を選別しなおしたらしい。
ある美術サイトのブログでは、このタイミングで現実から目を背けた展示という内容で批評されていたが、主催者の意図がどうだったのかはわからないけれど、とても瞑想的で人間が本当に大切にしなければならないものを伝えようとしている展示会だったと思う。
----個人的に感じるものがあった作品の備忘録----
James Lee BYARS (ジェイムス・リー・バイヤース) / Five Points Make A Man
瞑想的。暗闇の中の光。美しい。
Christian MARCLAY (クリスチャン・マークレー) / The Clock
世界中の人の誰もが脱落することなく同じ時間を生きている。
人は孤独だが関係性を持って存在している。
他人への思いやりや優しさ、繋がりなどについて。
すごい作品。ずっと観ていられる。
Mircea CANTOR (ミルチャ・カントル) / Tracking Happiness
先人たちが残した足跡を消してそこをまた踏みしめるということ。
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」ビスマルク
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