2011年12月3日土曜日

2012年に向けてのミーティング

題名通り、来年の2月のイベントのことやその先のこと、個人的な活動のことなどを制作者で集まってミーティングした。

身体のこと、心のこと、過去のこと、意識の向かうところ、それぞれがそれぞれの話をしたいい時間を持てた。このプロジェクトの輪郭が少しだけ見えた気がした。原体験的な話も聞けて作品に対する理解度がより深まった。そしてなによりそういった話から、体験の道程は違えどそこから似たようなことを考え、ある部分では自分と同じような場所を通過した人たちなんだなと感じることができた。

自分で紆余曲折して感じ、気付いた、自分が人と関係する上で、自分が社会や地球環境の中で生きる上で、自分が物を消費しながら生きる上で、自身の内側と折り合う上で大切だと思うことが先人の哲学に記されていたり、作品を作る際にストーリーを描いていって形にしたものが実は似たような話が神話や伝説に残っていたりすることが自分にはよくある。そういう時、とても奇妙で不思議な感覚に陥る。同時代でさえ生まれや育つ環境も違うわけだし、さらに時代が違えば政治的経済的状況も思想も風土も文化も食も身の守り方も快楽も規律も何もかもが異なるのに、同じところを通過し、辿り着く。そこには普遍的な何かが存在していてどんなに遠回りをしたとしても、いや遠回りをするからこそそこに絶妙なタイミングで辿り着くことになってでもいたような、何かに導かれているような気がしてならない。そこではいつだってとてもシンプルで普遍的なことが自分を迎えてくれていると思う。

ものを作る時、自分はそういう自分が感じる普遍性を理屈抜きで感じられるようなものをつくりたいと思ってつくっているのだと思う。

たぶん。


そんなことを思い、期待膨らんだ日だった。
もっと話す時間が欲しいと思ったと同時に、今後がさらに楽しみになってきた。

2011年11月7日月曜日

横浜トリエンナーレ

横浜トリエンナーレを2日間かけて観てきた。

3.11を経ての開催で、アーティストも思うところがあったのだろう。作品を選別しなおしたらしい。
ある美術サイトのブログでは、このタイミングで現実から目を背けた展示という内容で批評されていたが、主催者の意図がどうだったのかはわからないけれど、とても瞑想的で人間が本当に大切にしなければならないものを伝えようとしている展示会だったと思う。


----個人的に感じるものがあった作品の備忘録----

James Lee BYARS (ジェイムス・リー・バイヤース) / Five Points Make A Man

瞑想的。暗闇の中の光。美しい。


Christian MARCLAY (クリスチャン・マークレー) / The Clock

世界中の人の誰もが脱落することなく同じ時間を生きている。
人は孤独だが関係性を持って存在している。
他人への思いやりや優しさ、繋がりなどについて。

すごい作品。ずっと観ていられる。


Mircea CANTOR (ミルチャ・カントル) / Tracking Happiness

先人たちが残した足跡を消してそこをまた踏みしめるということ。

「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」ビスマルク

2011年11月6日日曜日

AAPA 横浜トリエンナーレ特別連携プログラム公演『足跡』

横浜トリエンナーレ特別連携プログラムとして企画された、AAPA 公演『足跡』を11月3日と5日の2日間観た。

AAPA は現在sylian rue とともに創作をしている、劇場外のさまざまな場所を舞台として舞踏公演をおこなうプロジェクトで、

今回の作品はsylian rue が楽曲提供をした2011年8月の公演「海を歩く」の内容を、今回の環境に合わせてブラッシュアップさせたものだった。

自分が関わったものを外側から観ることで、見えていなかったものに気付くことができた。

音楽でも舞台でも美術でも新しい分野の作品を鑑賞をするとき、まずその見方を自分なりに見つけることから始まると思う。

それは人それぞれ千差万別だろう。技術を楽しむ人もいればその美を味わう人もいるし、なにかしら意味を見出そうとする人もいるだろう。

舞踏公演を外部から観るのは3回目で、自分なりの鑑賞方法をひとつ見つけることができた。

それは、公演のタイトルやフライヤーなどから得るキーワード、その街の空気、公演場所の環境、舞台美術、照明具合、その空間の匂い、鑑賞する座り位置、椅子など接地面の感触、自分のからだの調子や心の状態、いま興味のある事柄、演者との関係性、観客同士の関係性、そして公演内容、それらをもとにあたまの中でストーリーを走らせていくやり方。

映画や演劇のように明確な、予定調和なストーリーを提示してくるものではないので、この鑑賞方法は相当楽しむことができた。

同内容の公演を複数回観ることによって違ったストーリーが展開したのも面白かった。

舞踏家の顔ぶれも違ったし、日時や天候やその場にいる観客の質感も観るポジションも心身の状態も違うわけだからそれも当然だと思う。


----制作のための忘備録----

ラストに流れる、作曲時に散々聴いてきた楽曲の聴こえ方がまったく違った。

自分なりのストーリー解釈が舞台構成や各舞踏家たちそれらとぴったりはまったからで、

そのイメージを誘発させた素晴らしい舞踏が音楽の上に立ちあがったからだろう。

音楽の領域で置き換えてみると、サウンドトラックと舞踏はバックトラックとメロディの関係性なのかもしれない。

見えるものに聴こえないものはない。

聴こえるものに見えないものはない。

今回、確かに踊りは聴こえていた。

いつかの機会に、バックトラックとしての踊りとメロディとしての音楽という関係性でも試してみたいし、舞踏の領域での舞踏と音の関係性も感じてみたい。

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sylian rueの西川裕一です。
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