2012年11月14日水曜日

いまを生きること


瞑想で体感したことのひとつに「いまを感じることで生きることを実感する」というものがあった。何か考え事をする、空想に耽る。これらは必ず過去や未来、別の世界を生きている状態であって、いまを感じてはいない。いまを感じるということは、例えば歩いているときの足裏の感触や風が肌に触れる感覚。湯に浸かっているときの湯当たりや温度、汗の出る感覚。嬉しい時に身体を包む心地良い感覚。悲しいときに胸が苦しくなる感覚。身体に感じる感覚こそがいまというものを感じるために必要なものであって、身体の感覚を感じること、これがいまを生きるということなのかと体感を通して思い知った。

しかしたとえこれを他人から聞かされたり、活字で読んだとしても知識としては得られるがここまでのリアリティは感じなかっただろう。だからこうして活字に起こしているのもどうなのかと思う。これは自分のための備忘録。



このところ身体表現の舞台を観ることが多く、瞑想で感じた「いまを感じる、いまを生きる」身体性と身体表現家が感じているであろう身体性に共通性があるように思う。
ここで思うのが、コンテンポラリーダンスのある表現方法について。
氷の入ったグラスを持ったときの冷たい感触を感じているという身体。いまを感じるという重要性。役者がそういった体感を通して得る感動を、そのままの動作・行為で見せる表現手段がある。
観客は自ら体感することなしにそれを見ている。大半の人はそこに何の意味も見出せずにただ傍観し、鋭く観察できる人でもそこにリアリティはなく、表層的に何かを感じた体でいる。

それはもしかしたらこういうことに近いのかもしれない。
瞑想と宗教や哲学との最も大きな違いでもあるが、自らの身体で体感して真理を知っていく瞑想と、教典や本などを通してあたまで真理を理解していく宗教や哲学。その両者間にどれほどのリアリティの差があるだろう。
瞑想で体験したことを体感ではなく言葉でいくら他人に語ったところで、そのリアリティは伝わらない。実際に体験してもらうことでしか得られないものだからだ。

クリエイトする側は「考えるな、感じろ」とよく言うが、リアルな身体を通した体感なしにクリエイトする側ほどの深い洞察を得ることは体験上、不可能だ。
これはコンテだけではなく、表現の場だけではなく、さまざまな場面で言えること。

2012年8月18日土曜日

真夏の鑑賞

東京都現代美術館へ特撮博物館と日本ファッションの未来性展を、下北沢ザ・スズナリへ少年王者舘を観に行った。


【特撮博物館】

これまで特撮やヒーローものなどいわゆる男の子が熱を上げるようなものに興味がなかったので、同時開催の日本ファッションの未来性展の次いでに覗いてみようという程度の気持ちで観たのだけれど、むしろこちらの方がメインイベントになり、流したエリアがあったにも関わらず三時間以上も特撮で過ごした。

歴代のウルトラマンやゴジラシリーズで使われた古いミニチュアたちは経年劣化で色褪せた雰囲気が美しく 、自分が生まれる前に作られたものや放送されたものからは当時の日本の熱のようなものを感じた。
時代が新しくなるにつれて作風がどんどん暗く、絶望と希望というテーマが重く圧し掛かってくる。
娯楽から社会性を持ったものへと移り変わっていくさまを辿っていく。

この展示でいちばん心を動かされたのは、いまの時代にCGなしですべてアナログで映像をつくろうという試みとその制作風景だった。
爆発シーンでもキャラクターの歩くシーンでもいい。ほんの数秒のカットの裏に、驚愕のアイディアと気の遠くなるような作業量が存在しているということに気付く。
そこに一切の妥協はなかった。

よく考えてみれば音楽制作でも同じだ。同じ事をしている。
聴こえるか聴こえないかという音をこのタイミング以外にはあり得ないというポイントに配置し、弾き方歌い方のニュアンスを何十回百回以上録り直し、リズムのタイミングを1ミリ秒単位の世界で見ながら組み上げていく。

すべてはリアリティを感じる作品でありたいがため。
隙があってはダメなのだ。
手抜き工事はいずれ発覚するし、そこから腐蝕する。

でも、この展示を観て感じたのは、まだまだ自分は甘いし妥協があるかもしれないということだった。
もっと感覚を鋭敏にし、虚構をさも現実と見間違うくらいに作り出さなければならない。
そしてそれを非現実的に破壊し再構築する。

そういった厳しさがある反面、制作風景の映像の中では作業している人たちがみんなわくわくしながら作っていた。
これぞというアイディアを話し合っては嬉々とし、緻密に組んだミニチュアを使った爆発シーンを撮っては歓声に沸く。

これがあるから創作はやめられない。
いい大人が集まって真剣に公園の砂場で砂遊びをしているような感覚だ。
こういう感覚を共有できる人と創作というものはやるべきだろう。
自分自身のために。
作品のために。



【日本ファッションの未来性展】

ギャルソン、ヨウジ、イッセイミヤケから現在までの日本の世界におけるファッション文化の移り変わり。
やはり最もエネルギッシュで、ファッション業界に巨大な一撃を喰らわせたのはギャルソンやヨウジ、イッセイミヤケの時代だと感じた。それ以降はどうもインパクトが小さいし、どこか表面的に見えてしまう。

特撮博物館のパネルで紹介されていた、ウルトラマンのキャラクターデザインを手掛けた成田亨氏の言葉が思い出された。
正確には忘れてしまったけれど、デザイナーがデザインすると一番肝心な部分が抜け落ちてしまうという内容だった。

以下はwikipediaからの引用だが、これとほとんど同じ内容のことが書かれていたはずだ。

『デザイナーが表現の初期衝動を大事にせず、物のかたちの根底や問題の根底を問わず、既存の怪獣デザインの枠内だけで怪獣のデザインを考える安易で狭い姿勢をとり続ける限り、既存の怪獣の単なる組み合わせや複雑化などデザインの堕落が進むと批判した。「新しいデザインは必ず単純な形をしている。人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」』
                       成田亨(Wikipediaより)

ただ、特撮に体力と時間を使ってしまい、流すようにしか観ることができなかったのが悔やまれる。
できればもう一度行きたい。



【少年王者舘】

地元名古屋の劇団。名前こそ知ってはいたけれど、初見。
映像、芝居、ダンスなどを絡めた、とてもサイケデリックで精神的に作用してくる舞台だった。
和装で舞台美術も昔の日本だったりして、どこか寺山修司の世界観の匂いもする。
何度も繰り返すシーンや台詞はループミュージックのようなトランス状態を引き起こし、
ほとんど支離滅裂だが皮一枚で繋がっているようなストーリーは、統合失調症患者のあたまの中の世界のようで、それを仮想体験してしまい結構怖かった。笑いを誘う箇所も多かったけれど、だんだん笑えなくなっていくのは自分がその世界に取り込まれてしまったからだろうか。終演後、正気に戻るのにいくらか時間が掛かってしまった。演者は終演後にすぐ客と挨拶を交わしたり話したりしていたけれど、よくできるなと思いながらそのやりとりをぼんやりと見ていた。

作用してくるものが自分の作る音楽に結構近いような気がした。
音楽に関してはまだやりようがある印象があったし、絡んでみることができたら面白いかもしれない。

2012年8月10日金曜日

8月9日

人間が求めるものの裏側には必ず悲しみや痛みがある。
どんなに純粋に人を愛しても最期には別れが来る。
他人と触れ合えば摩擦が生じ、傷を受け傷を付ける。
楽をしたり利を得たり勝利を掴んだりというその背後には皺寄せが存在する。
人間が動けば悲しみが発生する、と言ってしまってもいいのかもしれない。
でもだからといって人間は破滅してしまえばいいなどとは言いたくない。

悲しみを生み出す人間の行為のなかで
尊いものとそうでないものの違いとはいったいなんだろう。
それはきっとそこに相手への愛情があるかどうかということ。

ロンドン五輪のスポーツマンシップと、昨日の長崎の鐘に想いを馳せて。

2012年8月7日火曜日

ものの見方と表現の姿勢について

ものの見方と表現の姿勢について

音楽だけでなくあらゆる芸術作品は、何を目的としてどんな意義を持ってつくられたものなのか(あるいはそういったものがあるのかないのか)ということを作品から読み取ることがとても大切だと思います。
そうしないと作品から感じることに齟齬をきたしてしまったり、ただの嗜好だけでのみ判断してしまうことになり、それは豊かでない、勿体ない見方だと感じるからです。
例えば、真実の探求を主題とした音楽に幸福感を求めても得られるものは少ないでしょうしね。
自分の欲しいものだけを求めるのか、そうでないのかという違いはあると思いますが、真摯にそのものと向き合うことを大切に考える私にとってこのことはとても大切な考え方です。

これは芸術作品のみに言えることではなく、人についても同じようなことが言えると思います。
当然、このブログの文章にも同じようなことが言えるでしょう。
このように考えていくと、違いによって共感できる/できない、受け入れられる/られないということはあっても、誰もが何に対しても否定することなどできないでしょう。

Sylian Rueの音楽は社会学や心理学の視点を持ってつくっているので、聴いて幸福を感じるという部類の音楽ではなく、そこから何かに気付くことがあったり、聴く人に新しい視点そのものをクリエイトできるような音楽として人に届けばと思っています。そのように音楽と向き合ってもらいたいというのが私の本意です。

2012年6月14日木曜日

FREEWORLD PARTY 2012.06.13

「FREEWORLD PARTY」に参加してきました。

http://freeworld.tv/
http://www.ustream.tv/user/FREEWORLDchannel


参加者の皆さんの前のめりなエネルギーがものすごく、だからこそこちらも倒れる心配もないので前のめりにいき、とても疲れました。心地良い疲れです。

クリエイター同士ということと、多くの人と話そうとするため、無意味な世間話などなくダイレクトな会話ができました。
こういう刺激的な時間をもっと増やしていけるよう、自分の感覚と活動を研ぎ澄ませていこうと強く思いました。


紀里谷和明さんが印象深い言葉を締めで話していました。

『「◯◯をやりたいと思っています」
「◯◯を目指しています」
無意味です。
何のアピールにもなりません。
クリエイターなら、かたちで見せてくれ。
命懸けで作った1枚、30秒を見せてくれ。
それで凄いものは凄いとわかる。
名刺、見返しません。
CD、DVD、観ないので受け取りません。
一瞬で衝撃を与えるものを見せてくれ。』

と。

正直なことを言うときは、ともすると辛辣になりがちです。
でも多くの言葉で装飾しても結局のところ、人と人は魂の部分で語らなければならないのです。
だったらはじめからそうすればいい、ということでしょう。
とてもシンプルでダイレクトで愛を感じました。
ものすごく共感します。

sylian rueの名前は、前回FREEWORLD TV配信で紹介いただいた際に覚えてくださっていたようです。
30秒の一撃は伝えられていると確信しました。
CDは受け取っていただきました。

もちろん、CDは色々な方にも差し上げました。
その皆さんが聴いてくださることを信じています。
顔を合わせて話して、面白そうだった人の作品をさっそく自宅で視聴しています。
何かが始まるといいなと思っています。

2012年6月2日土曜日

FUKAIPRODUCE羽衣 LIVE Vol.6


FUKAIPRODUCE羽衣(以下、羽衣)のライブを観てきた。
羽衣は一風変わったミュージカル=「妙ージカル」というスタイルで活動している劇団だ。
詳しくはこちら。

舞台作品と平行して、これまでの舞台で使われた楽曲を生演奏を率いて歌うという活動をしている、とても面白い劇団だ。

今回、羽衣を初めて観たのだけれど、上手く見せようなんて気がさらさらないような歌も身体も荒っぽい場面があり、切なく美しく歌い上げる場面も笑いを取りに来る場面もあり、とにかく振り幅が大きくて、いつの間にか演者が乗るジェットコースターに同乗させられて急上昇し急降下、旋回し再び急上昇するような、あっという間の二時間だった。

内容は、いわゆる「青少年少女の妄想」を大いに絡めた歌詞・台詞を載せた音楽と、汗だくで動き回る身体を軸に展開する。

「青少年少女の妄想」なので、下の話、性的なことばが多く出てくるのだけれど、不思議と品性を損なっていない。なぜだろうか。
おそらくそれは、なにか企みや処理とかいう乱暴な大人の性感覚ではなく、まだ性に対して罪悪感や羞恥心を感じていてそれに翻弄されてしまうとても純粋な少年少女の、美しいことばで綴られた甘酸っぱい恋の話だからだろう。
10代で多くの人が体感するむず痒さ。それを耳障りの良い音楽と、若気の勢いに似た大振りな身体、裸の心で表現する。

30代のいい大人たちが、10代さながらに、形相を変え変え歌い、汗まみれで必死に踊る。体力だって、体型だって、疲労の回復だって思春期と比べれば間違いなく衰えているはずの30代たちが。
それがとても滑稽で、とても共感でき、とても切なかった。
それでも彼らは歌い踊ることで無垢な青い羽衣を纏い、纏うことで、生きるために余計な知識や感情その他で装ってきた彼ら大人たちは裸になっているように見えた。
心が透けて見えるような、その羽衣。

なんだか、美しかった。
演者と同世代、あるいはそれ以降の世代がこの舞台/ライブを観たら、きっと似たような気分になるんじゃなかろうか。

公演後、帰り道でものすごく切ない気持ちに襲われた。
胸がぎゅっと締め付けられる、電車の窓に流れる景色を見ているようでまったく心ここに在らずの、気を抜いたら泣いてしまいそうになる、あの感覚。
懐かしい記憶を掘り起こされたからだろうか。
二度と訪れないあの時代を悔やんでいるからだろうか。
いま、恋をしたい、と思った。

友人に子どもができたり、人と結婚や子どもの話をすることが最近多くあり、そういうことについてはじめて想いを巡らせているのだけれど、
そんないまこそ、純粋な恋をしたい、と思った。


座って観ていただけなのに、ものすごくエネルギーを使ったようで普段にない疲労を感じた。
それは舞台上で繰り広げられる、ものすごい声量とぶんぶん振り回す身体を観てのことではなく、きっと感情が色々な方向に揺さぶられたからだ、と思う。
それはいい舞台、いいライブの証拠だ。
また、舞台やライブで感じたことを日常生活に持ち帰って、自分の一部にすることができる作品は、すばらしい作品だ。

観客がこれだけ疲れるのだから、演者は精根尽き果てているはずで、
そんな中、公演後に相手をしてくれた演者さんたちにとても感謝しています。

そういうわけできょうは精魂を使ったので、
帰り道に鰻を買って夕食を少しだけ贅沢にした。
今夜はよく眠れそうだ。



それにしても公演後、出演者にすごく良かったことをできるだけ多く伝えたいのだけれど、こちらも気分が高揚しているからなのか、ことばを重ねれば重ねるほどどんどん薄っぺらく伝わってしまっているように感じてしまうのはどうにかならないだろうか。
作品で伝えてくれたことに対して、ことばで返すことがまったく見合っていないように感じて、そういう場面に出くわすと毎回悶々とする。

2012年5月19日土曜日

吉日

きょう、友人夫婦が無事出産を終え、女の子を授かりました。
日々のニュースは悲しいものが多いので、本当に嬉しい報せです。 

自分もこのように喜ばれて産まれてきたのかなと思うと、
喜びを受け渡しながら生命というものは受け継がれていくのでしょう。

きょうは、良い日です。

2012年3月4日日曜日

救済

「更生に何のメリットが?」無反省 ライブハウス襲撃犯の「法相殺害計画」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120303-00000550-san-soci


かつての少年が再犯してしまったのは、
自分を許すことも、
自分の奥底にある反社会的な感情や衝動を受け入れることもできないまま、
周囲の人間に表面的な地均しをされて社会復帰したからかもしれない。
塀の向こう側の更正教育がわからないから実際のところは想像するしかないが、
根源的なところに触れなかったのであろうことだけは確かだと思う。

そして社会が、社会に馴染めない人をフォローする仕組みも場所も用意しないことも問題だ。


本当の救済について考えている。

2012年1月10日火曜日

パラダイスという名の洗脳夢について/メモリの童話集

先日観に行ったASYL公演で知り合った、演出家/舞踏家の方が主催する「メモリの童話集 http://ameblo.jp/miffy-cafe/」初公演の「パラダイスという名の洗脳夢について」を荻窪G-screw-dance-Laboで観た。

荻窪に降り立つのは2年半ぶりくらいになるだろうか。
とても思い出深い、自分にとって特別な街のひとつだ。
駅前のビルの中、こぢんまりとはしているが劇場があることなど知らなかった。
よく訪れていた当時は舞踏や舞台と絡むことも興味もなかったから当然か。
埋もれていた色々な記憶や思考といま現在の感覚や思考が混ざり合い、それが公演を観るための準備になった。


2011年というのはどうやっても忘れることはできないし目をそむけてはならない年だったが、
まさに2011年ならびに「いま、現在」を思考する人の脳内を覗き見するような70分だったと思う。

作品は演出家が自分の脳神経と絡み合い踊りながら、意識や無意識にアクセスしようとしているような内容に感じた。
演出家自身が今回の作品は観やすくポップな意識で作ったと言っていたように、
60's70'sのような色彩も交えながら現代について自分自身のあたまで考えるよう訴えてくる直接的な演出はとても印象的で、その直接さは「いま」必要な姿勢だと思う。
また年明け早々というタイミングで観たことも、この公演と2011年を余計にリンクさせたのかもしれない。
自分もあらためて2011年ならびに「いま、現在」について考えてみようと思った。

無意識にアクセスしようとしていると言ったが、拒否反応を起こすほどの無意識内を抉る内容ではなかった。
しかしもし演出家が、自分の内側を晒すことの他者に及ぼす作用についての自覚があったのだとしたら、それは自分のつくる音楽と同じ姿勢だ。
そしてそれを他人に見せつけようとする人間はそれぞれそうせざるを得ない事情があるのだろうが、総じて変態だと思う。

この上なく自己弁護になるが、変態と真摯とは自分の中でほとんど同義だと思っている。
無意識内には美しいイメージと恐ろしい思考、おぞましい欲望やイメージなどの狂気が同居しながら潜在しているはずで、自分はそれをサイケデリックと呼んでいるのだが、
そのサイケを露わにすることは現代社会生活を送る上ではタブーとされているし、
そもそも人はそういう自分の中のものを自分で見て壊れてしまわないように無自覚に抑圧して日々を送っている。
そういうものと正面から向き合って自覚していくことはとても勇気のいることで、自分自身に対して本当に真摯だと思うし、
そういう姿勢を社会との関係性に置き換えていくことは世界に対して真摯であると思うからだ。

そしてそういうものを晒しても咎められることなくむしろ受け入れてもらえるのが創作という場所だ。
自分が身を投じたそういう場所について考えながら帰途に就いた。