2014年5月30日金曜日

16 May 2014 - 27 May 2014 Vipassana Meditation at Kathmandu


ヴィパッサナー瞑想についての基本理念はこちら。
http://www.jp.dhamma.org/

瞑想の基本的なメッセージは、
・「いま」を生きる
・自分が「いま」何をしていてどう感じているのか、を思考や感情ではなく自分自身の身体に感じ取る
・何が起きても平静さを忘れない
・物事を客観的に捉える

あたまは一切使いません。なぜなら思考は過去や未来へと流れやすく、感情は客観視することが難しいからです。この瞑想法は、人間を苦悩させるのものは「渇望」と「嫌悪」することだという仏陀の教えを純粋に引き継いでいます。誰かを崇めたり儀礼を重んじたり何かに祈ったりといった形式的な、集団を作りたがるような宗教とは一線を画しています。現代の世界中のいずれの宗教も、根本的な部分を失った、器だけのものだ、とこのヴィパッサナー瞑想の教えの中では説かれています。
「渇望」と「嫌悪」から自由になるために、上記のメッセージはあります。瞑想をおこなってみると、自分の身体が生化学的反応をもってどれだけ正直に反応を見せるかがわかります。




16 May 2014 - 27 May 2014 Vipassana Meditation at Kathmandu

京都で二度座り、今回で三度目。
一度目は病気への救いを求めて ー 身体の苦痛との闘いと客観的視点の獲得という非常に大きな恩恵。
二度目も病気への新しい活路を求めて ー 身体の苦痛の解放と幻覚体験での昂揚。
そして三たび。

ある程度要領を得ているのでスムーズに事を運ぶことができるであろうと考えていたのは、溶けたアイスクリームに蜂蜜をたっぷりかけて食べ頭痛に見舞われるくらい甘い認識でした。
それに加えて旅の途中での参加だったため、瞑想を行うという覚悟はしていたはずのものの、自分自身の現実から離れた気分抜けきらぬままにコースがスタートしてしまったようで、初日から雑念と身体の痛みという嵐に面喰らいました。
更には、ヴィパッサナー経験者にはこの困難を理解していただけると思いますが、提供された食事のなにかしら或いは水で腹を下し(インドやネパールでは腹を下すことはごく当たり前のことのようですが、タイミングが非常によろしくない)、7日目から結局コース最終日まで、なんとか休憩時間まで持ちこたえた腹をさすりさすり手洗いへとにじり寄る日々でした。

今回は前回二度目に体感したような錯乱しかけるほどの強い幻覚作用はありませんでした。これはおそらくどのような感覚が生じても、どのような想念やビジョンが拡がっても、客観的視点を常に忘れることがなかったためだと思います。前回は幻と現実の区別がつけられず、圧倒され、主観のみで見ていた自分がその幻に巻き込まれてしまった結果であり、今回それがなかったということは収穫のひとつと言えるでしょう。

深いビジョンは見なかったものの、瞑想としては更に一段自身の深みに降りたと感じています。物心つく前後から感じていたであろう他者とのコミュニケートに関する問題の根幹や孤独というものに対する捉え方や反応は、以前自身を深く追求した際に気付き、時間がかかりはしましたがそれら問題を受け入れて自分なりに昇華し解決したつもりでいました。しかしそれはどこか不確定的で、あたまでのみ理解をしていたのでしょう。
自分にとって都合の悪いものを気付かぬうちに目の届かない屋根裏の奥のほうへと隠してしまったのかもしれません。このような反応が慣習化されていることには気付いていました。が、気付かぬうちにそれは達成されてしまうので、何かあるたびに自覚し、また無かったことになるということの繰り返しです。
その問題点が再び、いや、根幹と思っていたものの更にその奥にその原因が存在していて、それが今回はリアルな体感を伴って立ち現れてきたのです。体感を伴う、言い換えるならば身体に生化学的変化を伴うと、脳の記憶に身体の記憶にいつまでも残ります。

今回の瞑想は10日間のうち、9日間と半日は大変厳しい時間でした。
ヴィパッサナー指導者である故S.N.ゴエンカ氏が心の手術と呼ぶ所以が少しだけですが理解できました。三度目でようやくこの瞑想法の神髄を垣間見たという気がしています。


ところで、瞑想中に気付いた話をひとつ。インドやネパールの蠅は肝が据わっているというのか、図々しいというのか、集り慣れているというのか、追い払っているさなかのその手に止まってきます。蹴散らそうとばたつかせるその脚に止まってきます。まるで自分のリキシャーになんとか乗せようとする、或いは自分のショップへ連れていこうと躍起になる、一部のインド人のようです。
両者ともなにか悪意があっての行為ではないと思うので悪ではないのですが、コミュニケートが取れない分、蠅のほうがたちが悪い。かといって、こちらが黙っていると好き勝手に止まり、平気で長居する。

考えた結果、どちらを取っても止まってくるのだからあまり気にしない、というのがこの地方で生活する上での正解なのかもしれません。そもそも、衛生管理が良くないために蠅が大量に発生しているのでしょうから、面倒くさがりが余計に面倒くさい結果を招いているという図式がここでも成立しています。

いずれにせよ、瞑想中は身体を動かすことを禁じられているため、瞑想ホールにはそこまでの数は飛んでいないものの、不運にも自分をターゲットにしてきた蠅に対しては「すべては移り変わる」の精神で反応しないという方法しか取れないのです。ですが、さすがに首筋や耳の裏を這い回られるとかなりの精神力を要します。正直に言うと、いまの自分の器では無理でした。これもひとつの試練なのでしょうか。先は相当に険しいようです。

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